2016年12月11日日曜日

津田仙




連載漫画「海を越えて」に出てくる津田仙の作った学農社のあった場所は、麻布東町23が最初にあった場所で、その後明治10年にすぐ下にある麻布新堀町2に移転したのです。
津田仙は、25歳の時、外国奉行の通訳になり、津田家に婿養子にっています。
30歳の時、幕府発注の軍艦引取り交渉のため、通訳として福沢諭吉らと一緒にアメリカに行っています。
明治になって、新しくできた外国人向けのホテルで働き、サラダを食べたい外国人のために西洋野菜を作り、アスパラガスで大もうけをしたのです。
この頃、日本の女子教育の低さに心を痛めた、北海道開拓次官の黒田清隆の意見でアメリカに女性を留学する話が持ち上がりました。
そこで、仙は、娘の梅子(6歳)を、アメリカに留学させました。
その二年後の明治6年、梅子がアメリカで洗礼を受けた年に、仙は、ウィーンで開かれた万国博覧会に書記官として行き、そこで世界中の言葉に翻訳されている聖書に出会い、それがきっかけでキリスト教にひかれます。
その時もちかえったニセアカシアの種で大手町に東京で初めての街路樹を作ったのです。
明治8年に、メソジストのソーパーより、妻と一緒に洗礼を受けました。
明治9年に、農産物の栽培・販売・輸入、農産についての書籍・雑誌の出版などを事業とする学農社を作り、トウモロコシの種の通信販売をしました。
これが、日本で最初の通信販売になります。
何でも、初の多い方ですね。それだけ先見の明があったと思います。
同志社を作った新島襄と、東京大学教授で、人間の自由と平等をといた中村正直と共に、、“キリスト教界の三傑”とうたわれたました。
死後、内村鑑三や新渡戸稲造から追悼文の中で「大平民」と呼ばれたのです

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